15歳で告げられたこと
第4章
ファッションデザイナーになる!
この決意をしたのが、15歳のときでした。
子供の頃から大好きだった洋服を、幼い頃はお人形の服作りから始まり、中学に入ると家庭科の時間でスカート作りを教えて貰い、いつしか洋裁の本を片手に自分の服作りに励むうち、この道を探求しようと決めたのでした。
そこで、プロとしての成功を“自分のお店を出す”との目標設定をし、15歳からの「ファッションデザイナー独立年表」を作ったのです。
高校卒業までに洋裁技術の自主トレをする。
高校を出たら、憧れのデザイナーが出たと言う東京の専門学校に入る。そこを出たら、その憧れのデザイナーのサロンに就職する。30歳までに、これぞと思う人のサロンに転職し、自分のスタイルを確立する。そして、1995年に独立して自分のお店を持つ!
この“独立!”を見据えた未来を見たとき、何故か独立と同時に、たくさんの後輩達を指導すると言うビジョンが見えたのです。
なるほど、その頃には私もそこそこの年齢になっているのだから、若い人達を下働きに雇って行くのかも知れないな~とぼんやり思う、ただそれだけでした。
さて、我ながら大変素晴らしい計画が立てられたものだと喜び、そこに向かって邁進することになるのです。
まず、東京の専門学校には行かせて貰えず、そもそもファッションデザイナーになるなどと、お嬢様育ちをさせたい両親に猛反対され、止む無く花嫁修業のためと称し短大の被服科へ入学。
そこでは、学校の課題以上に難しい素材に次々にチャレンジし、技術の向上を図り続け、卒業後やっと服飾専門学校に行かせて貰えるも、自宅通学の出来る近場で手打ち。
就職は、ようやくファッションデザイナーとして採用してくれる大手商社の子会社に入る。
そこで、2年働いた後、アパレルへ転職。
15歳の計画は、働く会社や住まいは違えど、そこそこ思うままに進んだのでした。
ところが、30歳を過ぎた頃、ふと「ファッションデザイナー独立年表」を思い浮かべると、15年も過ぎたというのに1995年の独立までしか見えないのです。
「見える」とは、サイキックビジョンで見ることを指していますが、そのビジョンでは、明日のこと来週のこと、来年、2~3年先と、光の強さや彩りでおおよそ見当がつく程に見ていることを指しています。
そんな風に未来を見通すことは当たり前の習慣であり、そのビジョンを見据え今やるべき事出来ることを実行するのが私の生き方でした。
順調に年表を進む私の人生ですが、見えている先が延びていかない。
15歳のときには、“なるほど数十年先までは見通せるのね~”と考えていたのに、15年も過ぎて先が延びないのはおかしい・・・。
これはひょっとして、当時読んだ事のある本「ノストラダムスの大予言」で言われる、“1999年に地球が滅亡する”ので、私の人生はその前に終わるのか・・・と心配になりました。
そんな心配を、当時の上司に何気なく話すと、「君は、その年から人のために生きるんじゃないか?」と言われたのです。
ふ~~ん、そう言えばデザイナー独立計画を立てたときに、後輩を指導すると言うビジョンが見えていたな・・・とぼんやり思い出しました。
確かにそこまでは自分の思いと希望。
それがもし成し遂げられたら、ひょっとすると私は人のために何かしようと思うかも知れません。
しかし、ノストラダムスの大予言が気になった私は、その夜いつもにも増してしっかりと祈った後に、神様に問いかけたのです。
1995年から先に何があるのでしょう?
すると、
「おまえは、人々を導く先導役となる。そこそこの人数の、ある程度の数のグループを率いて、日本の国の未来へ進む。人々の前に立って、皆が行く道を指し示し、後に続く人々を最後まで先導するのだ。」と。
へ~~なるほど、そんなお役目があるのですか。
それにしても、やっぱり「ノストラダムスの大予言」で言われる、天変地異を生き延びるための先導役なのでしょう・・・たは~と思ったものです。
但し、この時、私は神様に、条件を出しました。
それは、人々の幸せのために、困っている人々を助けるために、そのために私を働かせると言うのなら、その前に私を絶対に幸せにして下さいとお願いしました。
それと言うのも、私は30歳を迎えても独身で、結婚しなければと強く願望するのにこの人はと思う人に出会えないまま、家族からは30歳を前にして嫁に行け攻撃を受け続けていたのです。
兄に至っては、「お前はこれまで相手を選ぶ立場にいたかも知れないが、30歳を越えたら、これからは選ばれるのを待つだけの立場。選ばれる可能性は年々落ちていく。」と引導を渡されたのです。
うすら淋しい心の内は、それまで友人達の結婚をいつも心から喜びお祝いをし、幸せを共に味わっていた私が、この頃から少しだけ心の中に“いつまでお祝いをあげ続けるのだろうか・・・”と、ねたましい気持ちが芽生え始めていたのです。
心の中のどこを切っても人の幸せを喜んでいた私に、うっすらとジェラシーが芽生えたのを自覚したときは、それはそれは恐ろしい気持ちになりました。
こうやってずっと独りでいると、いずれ若い後輩いじめをするような、意地悪女になりはしないか・・。
そんな気持ちを心の隅に、ほんの少しでも抱えたままで、人の幸せや人助けのために働けるはずがないと思ったからこそ、まずは私を幸せに、豊かにしてくれと注文を付けたのでした。
さて、1991年の春。
2月に予定していたエジプトツアーが湾岸戦争のために中止になり、旅行の代金が戻ってきました。
そのツアーは、スピリチュアル系の会社が計画したもので、ツアーのタイトルには「あなたはこの旅を終えた後、魂の選んだ道を進み始めるだろう」とあり、そのキャッチコピーに惹かれて申し込んでいたのです。
それが中止となってしまったものの、もうこの時に魂の選んだ道を歩み始めないわけには行きませんでした。
戻ってきたお金を、その会社のいくつかのセミナーやワークショップ、そしてスティーブンの個人セッションやらに全部振り込み、次々に体験していったのです。
夫は、私が申し込んだのと同じセミナーやワークショップに、ことごとく申し込んでいました。
参加する度にそこで出会う人に、強い親近感を覚え、まるで子猫がじゃれるみたいに仲間達とつるんでは、サイキックごっこ、パワースポット巡りなどをして楽しい時間を分かち合いました。
特にこの人と思ったわけではなく、しかし、そばに寄ると心地よく、一緒にいるのが当たり前、大変懐かしく思える相手でした。
この夫との出会いで、私は“いよいよその時が来た”と実感しました。
夫は、神様からの贈り物であり、私が導き手と約束した条件でした。
なんと分かりやすいサインでしょう。きっちり約束を守る神様の誠実さに、私は人のために生き始める覚悟をしたのでした。
午前中は個人セッションを行い、週末にはスクールを開講する。ウィークディは青山のオフィスに出かけてファッションデザインの仕事に従事する。
このダブルスコアを数年続けた後、1995年に長く携わって来たファッションデザインの仕事を辞めることになりました。
神様との約束のとき、15歳で言い渡された通り物事はスムーズに行くべき方向へ進み、ここから私の新しい人生が始まったのです。